言葉の大切さとパーソナリティ
私の親戚に仕事がバリバリできるエリート夫婦が いる。
ものすごい倹約家で、節約した分を貯金にまわしキャッシュで家を買ったとよく自慢していた。
彼らには2人の息子がいる。
長男は心優しくて おっとりしており、非常にシャイなタイプ。
次男は長男より2歳下でわりと気が強くて明るい、一般的なクラスで笑いを取る人気者タイプ。
2人は性格的に全然タイプが違う。
その両親は息子達に小さい頃から期待をしている。
毎日子供が小学校が終わって帰宅すると、母親が17時から夜ゴハンの始まる19時頃までつきっきりで勉強をみていた。
その目つきは非常に鋭く、勉強机の隣で睨みをきかせて黙ったまま息子の勉強を監視する母親。
塾に行かせることなどはせずに、両親が勉強を強制させていた。
私の母はたまたま上記の光景を目にして、子供に対して少しやりすぎじゃないか。とぼやいていたのを覚えている。
父親はしきりに「長男は(勉強が)できる。長男は(勉強が)できる。」と近所や親戚に言っていた。
小学校でたとえ100点を取っても当然だ。という風に話し、100点を取れない場合は責められたりしていた。
両親は息子達をいい高校、いい大学に行かせるという事が目標であった。
褒めたりせず、口調もひたすら厳しい。昭和の家庭らしく、決して息子が反抗ができるような状況ではなかった。
残念なことに親のどちらかがなだめたり優しくしてあげるタイプの人間ならまだましだったかもしれない。
現実はどちらも少し神経質で、言葉数が多くないおとなしいタイプであった。
勉強以外の娯楽は一切排除し縛り付けた。今思うと少し異常な行動に見えた。
両親を喜ばせようと息子達も必死で頑張っていた。
時は経ち、長男が高校生になった頃から両親の期待はますますエスカレートしていく。
父親はいつも長男と二男の学校の成績を比較したり、今学年で○番目なんだよな。と言ってニコニコしていた。
父親にとって、ほぼ全てのものさしが学校の成績になっていた。
その頃から我慢していた反動なのか、生活が窮屈になったのだろうか、長男の言動が少しだけ反抗的になり学校の成績が一気に下がった。
また両親は成績の下がった長男を人前でこれでもかと責め続ける。
しばらくすると両親は、今までの発言を180度に方向転換し「あいつはダメだ。あいつはダメだ。」と、本人だけでなく人前でも言うようになった。
その後、次男は某有名私立高校に合格した。この頃から「次男は(勉強が)できる。本当にできる。」と言い出すようになる。
これで兄弟の差が圧倒的になった。
そして長男が大学受験の際に第一希望の大学に失敗してしまい、浪人することになった。両親はプライドが傷つけられ大きなショックを受けたのであろうか。
今までの何年間も期待していた分、がっかりした苛立ちや腹立たしさは相当なものだったに違いない。
「あいつはダメだ。あいつはダメだ。」と、ますます長男の批判がひどくなっていった。
この頃からナイーブな性格の長男は、心が折れそうになっていたのかもしれない。
長男は一生懸命頑張っていた結果、たまたま残念な事に落ちてしまったので仕方ない事ではある。
一方の次男は高校からエスカレーターで某有名大学に入ることに成功し、両親の期待を一身に背負った。できるという言葉を掛け続けられ、かつ勝ち気な性格な為、次男はどんどん自信をつけていった。
無事に期待通り関西で一番の大学院に入り、大手の会社に就職もスムーズにできた。
現在の長男はというと、浪人後に滑り止めで受けた大学に受かったものの、精神を病んでしまい卒業後に完全なニートになっているとのこと。
(両親は長男を残して次男と一緒に県外の新しい家に住み、長男は家に居るペットが友達だという話を聞いた。)
私が小さな時〜現在にかけてあった身近な出来事なのだが、特に大袈裟に書いてはいない。
人間の個性や才能を全く度外視して、学歴ばかりを追求していった両親の教育方針を否定するつもりも無い。
むしろそこまでストイックにできるということはすごいと思う。
ここで何を言いたいかというと
ダメだダメだ、という言葉が日常的に人に掛けられると、その人は本当に暗示にかかったようにダメな結果になってしまうという事を実感した。
逆にできるできる、と言われ続けた人は本当に上手くいったという事も気付かされた。
言葉の持つパワーや威力、影響というものはすごいのである。
特に幼少期から成人するまでにかけての人格に大きな影響を与えるものだと思うし、いかに個性に合わせて前向きにさせてあげるかも重要だと思う。
最後に本当に私を自由に育ててくれた両親に感謝したいと思う。
たまに実家に帰ると、私の父と上記の話になって「俺の教育は間違ってなかったやろ?」 と得意げに言われる。
私も良いところや悪いところも両方持っている。
きちんと全てを受け入れて、 できる限り長所を伸ばして行く。
明確な目標がある限り、悲観するのは時間の無駄なので目標に近づくような手段を模索するだけなのです。
周りの人にいい影響を与えたり、一緒にいて前向きになってもらえるような存在に私もなりたいと思う。